第2回 ‘中海−本庄工区干拓事業’問題に関する勉強会

「地域史」からみた中海の漁業


伊藤 康宏(島根大学生物資源科学部助教授)

日時:7月17日水曜日 午後6時より
場所:生物資源科学部1階小会議室




 本庄工区の干陸問題が大詰に差し掛かった現段階で中海の漁業振興や水域の利用に関する議論が争点の1つになっているが、議論の出発点になる中海の漁業の実態把握はどうかというと、寂しい限りである。
 「中海は、かつて宍道湖の2倍の漁獲高をあげていた」と言われる。アカガイを特産としていた当時の中海の漁業の実態はどのようになっているのであろうか。報告者はこのような問題関心から、『汽水湖研究』第4号(94年3月)に「宍道湖・中海地域漁業史研究の現状と課題」なる小論を発表した。第2回勉強会では、これをネタにして「『地域史』からみた中海の漁業」と言ったテ−マで報告した。なお、次回はこれを踏まえて、今夏以降に計画している現状の実態調査の結果を報告したい。
 ところで、肝心の報告の要点であるが、同上資料所収の文献などから「中海地域漁業史年表」なるものを作成し、中海漁業の移り変わり、その特徴をつぎのように要約した。

  1. 近世は大根島周辺の藻葉出入、藻草取関係の史料が中心であることからも伺えるように肥料用の藻草のウエ−トが大きかった点。
  2. 近代に入り、明治中期にアカガイ(藻貝)養殖技術が確立すると、中海漁業はアカガイ養殖を中心に展開していった点。
  3. その代表的な事例としてアカガイ漁場をめぐって島根鳥取両県の漁民の間で数次にわたって紛争が起った点。
  4. 1922年(大正11)から始まる境港修築や大橋川浚渫工事が、従来とは異なる赤潮を発生させ、アカガイ養殖にとくに大きな被害をもたらし、養殖を困難にさせていった点。
  5. 戦後の一時期、漁業の復活がみられるが、その頃(1951年<昭和26>)の中海漁業の漁獲高は、量で53.5万貫、金額で6,381万円で、これは宍道湖(当時はシジミのウエ−トがまだ高くはなかった)の4倍前後の漁獲高であった点。
  6. 現在でもその名残りはあるが、古くは中海漁業に地域性が見られた点。例えば、1912年(大正1)ではウナギ・ハゼは揖屋(東出雲町)の延縄、シラウオは竹矢(松江市)の張切網、エビは本庄(松江市)の地曳網、アカガイは波入(八束町)の桁曳網、藻類は二子(八束町)の採草、養殖アカガイは養殖発祥地の意東(東出雲町)の各地で主に生産。

 今後の課題は、中海に関する情報を蓄積していくために史料の掘り起こし、古老からの聞取り記録化と、中海の「地域漁業史」の研究、それに中海漁業の実態把握のための現状の調査研究を進めることである。そして、これらの作業を通して中海の「漁業と地域社会」を展望できればと考えている。