第9回 中海・本庄工区月例勉強会

斐伊川水系の昆虫類
 −特に大根島の洞窟にすむ昆虫について−

星川 和夫 (島根大学生物資源科学部)
日時:1997年1月24日金曜日 午後6時より
場所:島根大学総合理工学部 11講義室




要旨:

 斐伊川中流域(木次周辺)の河川敷から中海の湖岸にかけて、1992−1993年に行われた昆虫相調査により1424種の昆虫類が確認されている。今回はその概要を簡単に紹介し、昆虫類からみた中海の生態系の特徴について、特に大根島の洞窟の昆虫についてお話した。




1.斐伊川水系の昆虫類の多様性

 中海を含む斐伊川中下流域からは、甲虫目 502種、チョウ目 394種をはじめ、18目1424種の昆虫が確認されている。これらのデータを基に Prestonのモデルを使って、この地域に生息する昆虫総種数を推定すると約3000種類(日本産既知種のおよそ10%)と計算され、斐伊川水系では、河川敷環境としては比較的良好な自然環境が維持されていると考えられる。
 調査地域を斐伊川中流域・下流域・宍道湖・中海と4地域に分けて、それぞれの場所の昆虫種類の類似性をクラスタリングによって評価した。斐伊川中・下流域間は水生昆虫でも陸生昆虫でも類似性が高かったが、宍道湖と中海とでは陸生昆虫ではあまり差がないものの、水生昆虫では中海の種数が宍道湖の半分以下と激減し、類似性も低かった。これは明らかに、中海湖水の塩分濃度の影響によるものである。
 昆虫類だけからみるならば、中海周辺の陸上生態系は「保全」の対象というよりは、むしろ「修復」の対象である。下流部はどの河川でも都市化しているので事情はどこでも似ている。ただし、貧弱な多様性とは言え特異な群集が成立している場所も散見されるので、河川敷環境修復事業にあたっては注意を払う必要がある。


図1.斐伊川水系における水棲昆虫(上)とその他の昆虫(下)の地区ごとの種類数(左)と地区間の昆虫層の類似性(右).クラスター分析で描かれた右側の木の枝のような図は,右端が幹で左端が枝先である.それぞれの地区の昆虫の種類や量が似ていれば枝先で分かれるが,全く違っているときには幹の元のから分かれた図になる.QSは昆虫の群集の類似性の高さを表す指数.UPGMAはこのような図を描くときの手法の一つ.木次は斐伊川中流域を,平田は下流域,宍道は宍道湖,中海は中海をそれぞれあらわす.




2.中海の水質と水生昆虫の関わり(ユスリカによる栄養塩類の除去)

 海水に耐えることのできる昆虫の種類は十指に満たない。中海程度に希釈されていても、そこで生活できる昆虫の「種類」は極めて少数である。しかしそれはそこで生活する昆虫の「個体数」が少ないことを意味するものではない。1980年代に中海の湖岸で灯火に集まる昆虫類を調査した結果をみると5月から9月にかけて1地点で約2万個体のユスリカ成虫が採集されている。次いで、ブユが7千個体程度。その他の昆虫は全部合わせても1千個体に満たなかった。この水域における昆虫優占群はユスリカ類である。
 私たちの研究室では最近ユスリカ成虫の窒素と燐の含有量を測定した。種類により性によって含有量は変化するが、その値は燐で 8-15 mg/gDW、窒素で 116-138 mg/gDW であった。 この値と前述の羽化量を用いて中海湖水からユスリカの羽化により除去される窒素・燐量を概算すると 603gN/year, 54gP/yearとなり、おおよそ魚30kgの水揚げに相当する量にしかならなかった(ただし上の値は過小評価するように推定パラメーターを仮定している)。しかし絶対量はともかく、ユスリカの生息するような有機汚染のすすんだ環境から毎年自動的にこれだけの栄養塩類が除去されているという側面を注目すべきであろう。




3.大根島竜渓洞のイワタメクラチビゴミムシ

 中海の中央部にある大根島は約25万年前の多孔質の玄武岩からなる。ここには2つの洞窟があり、ドウクツミミズハゼなど注目すべき動物の記録がある。私達は竜渓洞(第2溶岩随洞)から知られるイワタメクラチビゴミムシを求めて数回この洞窟を調査した。しかし、これまでに採集できたのは以下の4種にとどまっている(いずれも同定依頼中;結合類(コムカデ)の一種、ナガコムシ科の一種、トゲトビムシ科の一種、カマドウマ)。
 最後に、イワタメクラチビゴミムシ Daiconotrechus iwataiについて言及したい。この属(ダイコンメクラチビゴミムシ属)は、この洞窟に固有である、つまり世界中でこの洞窟にしか生息しない。いままでに4個体が採集されているだけであり、標本はすべて国立科学博物館に保管されている。この属は朝鮮半島南東部の洞窟に広く分布する チョウセンメクラチビゴミムシ属 Coreoblemis と南西日本洞窟に広く分布する ノコメメクラチビゴミムシ属 Stygiotrechus の両方に形態的に近縁であり、生物地理学的に極めて興味深い。常識的な解釈では「チョウセンとノコメが分化する前の共通祖先の形質の一部が、ダイコンとしてノコメの分布周辺部(北端)に遺存的に残った」ということであろう。その場合25万年前(リス氷期末期)にこの洞窟ができたという事実は、チョウセンとノコメの属の分化がかなり新しいこと(25万年前以降)を示し、この短い時間で属が分化できるかという新たな疑問をもたらす。別の証拠−−例えばDNA解析などを通じて分化年代の推定を行う必要があり、そのためにも新しい標本を採集しなければならない。私たちは今後もこの洞窟の調査を継続するつもりでいる。


 図2.イラタメクラチビゴミムシの原記載図.この論文は1970年に国立科学博物館の紀要に掲載された(Ueno, S. 1970 Bull. Nat. Sci. Mus. Tokyo 13: 610-615).このほかの採集例は以下のとおり.
 Mar. 30, 1970 Ueno 1♀ Holotype
 Oct. 8, 1970 Ueno 1♂
 Aug. 12, 1979 石田・西田 2exs.
 Oct. 28, 1997 星川




付記: 今回の勉強会ではふれなかったが,斐伊川中流域から宍道湖西部にかけて,日本固有種で局地的にしか生息していないトンボの一種のナゴヤサナエが多産することが知られている.本種については,淀江・大浜らによる10年間にわたる羽化殻調査など,詳細な生態研究がなされている.